『グーチョキパー』第6弾
「時代病」という見方
― 情報は多い、呼吸は浅い、身体は動かない。現代人のアンバランスを三分節から考える ―
これまで「グーチョキパー」を手がかりに、人間の身体を、
集まる―めぐる―広がる
という三つの働きから眺めてきました。
今回は少し視野を広げて、**「病気には、その時代らしい偏りがあるのではないか」**ということを考えてみたいと思います。
もちろん、「時代病」という言葉は正式な医学的診断名ではありません。糖尿病、うつ病、不眠症、高血圧など、それぞれの病気には医学的な診断基準があります。
ここでいう「時代病」とは、もっと広い意味です。
その時代の生活様式や社会環境が、人間の身体と心に共通した偏りを作りやすいのではないか。
そんな見方です。
現代人は、頭を使いすぎている?
朝、目が覚める。
まずスマートフォンを見る。
ニュース、メール、LINE、SNS。
通勤中も情報を読み、仕事ではパソコンの画面を見続けます。
仕事が終わっても、動画やネットニュースが続く。
私たちは一日中、
見る
読む
判断する
比較する
考える
という活動を繰り返しています。
三分節の言葉でいえば、これは神経感覚系が非常に強く使われる生活です。
頭部では、外界から情報を受け取り、全身から情報を集め、認識し、整理します。
資料でも、三分節の一極として頭部・神経感覚系が置かれ、それに対して胸部のリズム系、四肢・代謝系が対極的な働きを担う構造が示されています。
問題は、神経感覚系を使うことそのものではありません。
考えることは、人間の大切な能力です。
問題は、
一日の大半を、その一つのモードだけで過ごすこと
なのかもしれません。
胸の「リズム」が失われていく
その一方で、現代生活では胸部の働きをゆっくり感じる時間が少なくなっています。
急いで食べる。
急いで歩く。
予定から予定へ移動する。
メールが来ればすぐ返事をする。
一つのことを終える前に、次の情報が入ってくる。
本来、人間には、
活動―休息
吸う―吐く
緊張―弛緩
覚醒―睡眠
という往復があります。
胸部の心臓や肺は、その象徴のような器官です。
心臓は収縮と拡張を繰り返し、呼吸は吸気と呼気を繰り返す。
資料でも胸郭の特徴は、
「広がる―戻る」
というリズムとして表現されています。
ところが現代社会では、
活動―活動―活動―活動
になりやすい。
眠る直前までスマートフォンを見ている生活は、その典型でしょう。
つまり「忙しい」ことの問題は、単に仕事量が多いことだけではありません。
戻る時間がない。
三分節から見ると、ここに一つの現代的な問題が見えてきます。
そして、身体は動かなくなった
さらにもう一つ、大きな変化があります。
人間は驚くほど身体を使わなくても生活できるようになりました。
車。
電車。
エレベーター。
通販。
デスクワーク。
スマートフォン。
指一本で、買い物も仕事も連絡もできます。
非常に便利です。
しかし四肢は本来、
自分から世界へ働きかける
ための器官です。
歩く。
運ぶ。
作る。
触れる。
働きかける。
資料では、頭部が「周囲から中心へ」受け取る方向を持つのに対し、四肢は「中心から周囲へ」働きかける方向として示されています。
現代生活は、世界から情報を受け取る量は劇的に増えました。
しかし、
自分の身体を使って世界へ働きかける量は減っている。
この非対称性は、かなり重要なのではないでしょうか。
グーばかりの社会?
グーチョキパーに戻ってみます。
✊ グーは、集める。
情報を集める。
注意を集中する。
考える。
これは現代社会が非常に得意としている方向です。
ところが、
✌️ チョキ――二つの方向を結び、行き来する。
🖐️ パー――身体を使って外へ広がる。
この二つが弱くなっているようにも見えます。
もちろん、これは医学的な分類ではなく、三分節を日常生活へ応用した比喩です。
しかし、
情報は増えた。
身体活動は減った。
その二つを結ぶ呼吸や生活のリズムも乱れやすくなった。
こう整理すると、現代人が感じているさまざまな不調が少し違って見えてきます。
日本では、さらに「我慢する」という文化が加わる
ここには日本の文化的特徴も関係しているかもしれません。
「周囲に迷惑をかけない」
「空気を読む」
「みんなと同じようにする」
「少しくらい辛くても我慢する」
「仕事だから仕方がない」
こうした姿勢には、日本社会を円滑にしてきた大切な側面があります。
しかし、それが一方向に強くなると、
自分が疲れていることに気づかない。
嫌だと言えない。
休むべきときに休めない。
ということも起こります。
ここでも、
外界を非常に細かく察知する。
周囲の期待を読む。
自分の行動を抑制する。
という、神経感覚的な活動が前面に出ます。
一方で、
身体を動かす。
大きく息を吐く。
声を出す。
笑う。
休む。
何もしない。
という身体的・リズム的な活動が後ろへ退いてしまう。
日本で昔から使われてきた**「我慢」や「頑張る」**という言葉も、使い方によっては、この偏りを強化する可能性があります。
大切なのは、日本文化が悪いということではありません。
文化には必ず、その社会を支えてきた長所があります。
しかし、
ある時代には長所だった性質が、生活環境が変わることで身体への負担になることがある。
これが「時代病」という視点の面白いところです。
「疲れているのに止まれない」
現代の診療でよく問題になる状態の一つは、
疲れているのに休めない
という状態です。
身体は疲れている。
しかし頭は動き続けている。
ベッドに入っても考えている。
スマートフォンを見続ける。
翌朝また活動する。
三分節的に表現すれば、
神経感覚系の活動が前景化したまま、リズム系による回復への切り替えが十分に起こらない
状態と捉えることができます。
さらに身体活動が少なければ、四肢・代謝系を十分に使って一日を「使い切る」ことも少なくなる。
頭は疲れている。
しかし身体は十分に動いていない。
このアンバランスは、現代生活にかなり特徴的です。
三分節の面白さは「病名」ではなく「偏り」を見ること
ここで、三分節という考え方が役立ちます。
通常の医学では、
「これは不眠症です」
「これは自律神経の問題です」
「これは肩こりです」
「これはうつ病です」
と診断していきます。
これは治療上とても重要です。
しかし三分節では、そこにもう一つ問いを加えます。
「この人の生活では、どの働きが強くなり、どの働きが十分使われていないのだろう?」
という問いです。
例えば、
頭を使いすぎている。
呼吸や生活のリズムが乱れている。
身体をほとんど使っていない。
あるいは逆に、
考える余裕がなく、身体活動ばかりが過剰になっている。
重要なのは、
どの領域が良くて、どの領域が悪いということではありません。
三つの働きの間を、自由に行き来できることです。
健康とは「均等」になることではない
三分節でいう健康は、
神経感覚系33%、
リズム系33%、
四肢・代謝系33%、
ということではありません。
仕事をしているときには、頭を集中して使えばいい。
運動するときには、身体を思い切り使えばいい。
人と語り合うときには、感情が動いていい。
そして夜になれば、それらを手放して眠る。
つまり重要なのは、
偏らないことより、切り替えられること。
です。
グーになれる。
そしてグーを開いてパーになれる。
パーから、またグーへ戻れる。
その途中にはチョキがある。
固定されたバランスではなく、動くバランス。
それが生きた身体です。
現代人に必要なのは「もっと健康情報」だけではない
少し皮肉なことですが、健康のために、
「健康情報をもっと集める」
こと自体が、現代人の神経感覚系をさらに刺激している可能性もあります。
睡眠にはこれ。
腸にはこれ。
老化防止にはこれ。
血糖にはこれ。
毎日、新しい健康情報が流れてきます。
もちろん正しい知識は大切です。
しかし、ときには情報を増やすより、
スマートフォンを置く。
歩く。
呼吸する。
料理する。
庭仕事をする。
音楽を聴く。
誰かと話す。
眠る。
ということの方が必要なのかもしれません。
頭から胸へ。
胸から手足へ。
そしてまた頭へ。
時代病とは「時代と身体のずれ」なのかもしれない
人間の身体は、長い時間をかけて作られてきました。
しかし私たちを取り巻く環境は、わずか数十年で大きく変わりました。
情報はほぼ無限に入ってくる。
身体を動かさなくても生活できる。
夜になっても明るい。
どこにいても仕事の連絡が届く。
社会は急速に変化しました。
しかし、
呼吸する身体、歩く身体、眠る身体そのものは、それほど急には変わっていません。
そう考えると、「時代病」とは、
現代社会のスピードと、人間という生き物のリズムとのずれ
から生まれる側面もあるのではないでしょうか。
三分節は、そのずれを診断する正式な医学的検査ではありません。
しかし、
いま私は、頭に偏っていないだろうか。
ちゃんと呼吸し、戻る時間があるだろうか。
身体を使って世界へ働きかけているだろうか。
と、自分の生活を眺め直すための地図にはなります。
✊ 集まる。
✌️ 行き来する。
🖐️ 広がる。
現代という時代の中で、この三つをもう一度取り戻すこと。
そこに、これからの健康を考える一つのヒントがあるのかもしれません。





